肌寒い朝。窓を開けたら冷ややかな風が入ってきて、すこしだけ切なくなった。
昨日は夜中に『東京物語』を観た。やっぱり最後のシーンで泣いてしまう。
因みにわたしは小津安二郎作品のファンなのだけれど、この作品の原節子がいちばん好きだ。聡明で美しく、正直者で自我のある素晴らしい女性だと思った。彼女のことを想い、しくしくと泣きながら眠りつく。やけに朝の目覚めはよかった。
簡単な朝食を済ませ、いま読み返している江國香織の『ホリー・ガーデン』を開く。
この作品には、ちょいちょい小津映画が登場するのだけれど、ひさしぶりに『東京物語』を観ようと思ったのも、この作品の影響だ。
”タブー” というお話がいまの自分に特にぐさりと刺さったので抜粋する。
「愚鈍だが穏やかでやさしいこの男友達と肩をならべて歩きながら、女同士にはタブーが多くて厄介だ、と思った。」
「いつからタブーができたのだろう、と思った。避ける話題が一つずつふえ、いまでは果歩も静枝も、男のことについてはいっさい口をはさまない。質問もしないし、意見もしない。テリトリーを侵すことが怖いのだ。ほとんど神経症的に。」
どきりとした。わたしのことかと思った。
女の友情関係というものは独特で、親密になるにつれ、年月が経つにつれ、話すことよりも話さないこと、話せないことが増えていくのだと思う。
むしろ、関係性が浅い人の方が自分の悩みを打ち明けやすかったりする。それは、自分の過去を知らないから。自分の歴史を知らないから。その方が自分にとって都合がいいのだ。
でも、だからと言って仲が悪いわけでは決してない。
”なんでも話せる関係”というものが、友達、あるいは親友の定義ではなくなってくるだけ。(もちろん、友人関係の在り方は人それぞれなので、一丸にそうとは言えないが...)
それってすこし寂しいような気もするけれど、人生の苦楽を共に過ごしてきた過去があるからこそ、行き着いた関係性なのだと自分の中で収拾するようにしている。
そういえば作品の中で、初冬に富士五湖をドライブするシーンがあった。
わたしも初冬に全く同じルートをドライブしたことがある。
ドライブ自体は好きだけれど、ナビを任せられるのが苦手で、助手席でナビと睨めっこしてた。隣には好きな人がいて、たくさん話を振ってくれていたけれど、わたしの意識はナビや地図に集中していたため、あまり会話が続かなかった。(わたしは元来、二つのことを同時に行うのが大の苦手なのだ)相手に申し訳ない気持ちと後悔で落ち込みながら鳴沢氷穴をとぼとぼと観光した記憶がある。氷穴はすごく寒くて、天井も低くて、どこもかしこもゴツゴツしていて、なんだかダンジョンみたいだった。
思い出話はさておき、わたしはこの作品の文章に微かに漂う退廃的なムードや、読了後の空虚感が好きで何度も読み返している。
昨日泣いたせいか、やたら重たいまぶたをぎゅっと押しながらコーヒーを淹れた。お部屋が一気に芳醇な香りに包まれる。ベランダから揺れる洗濯物をみていたら、なんとなく電車に乗りたくなった。ひさしぶりに中央線を散策してみようかな。