蛍光灯のひかりが嫌い

日記、たまに紀行

割り箸のこと、あるいは小さな鬱憤について

わたしは割り箸を割るのがゼツボー的に苦手だ。

 

 


カップ麺をたべるとき、お弁当をたべるとき、定食屋に行ったとき

わたしは割り箸を見つめながら少し緊張している。

 

割り箸を上手に割ることができない。

 

割り箸ごとき…って思うかもしれないけれど(わたしもそう思う)とにかく苦手なのだ。

 

 

世の中のみなさまは、割り箸をきれいに割れなかったときどう思うのだろう。

 


あー、失敗した、でもまあいいや

 


と、流してしまう人がほとんどかな。

そのあとは目先にあるたべものに意識が集中して次第に割り箸がうまく割れなかったことなんて忘れていくのだろう。

かつてのわたしもそうだった。

だけれど、気づいたらそんな些細なことでさえ、いつまでもいつまでも引き摺るような大人に仕上がってしまったのだ。

 

楽しみにしていたおいしい食事も、"割り箸をきれいに割れなかった"というマイナスな感情で上書きされてしまうため、すこし損した気持ちになる。

味に支障が出るわけでもないのに。

 

手元を見下ろすといやでも目に付く歪な形の割り箸。

上手に割ってあげられなくてごめんって思う。

 


世の中には、"気にしないこと" ができない人がたしかに存在するのだ。

 

 

最近、思うのだけれど、

子どものころは、割り箸なんてきれいに割れなくても全く気にしなかった。

「あー!失敗した!」と思っても、すぐ別のことに興味関心が湧くから、そんなことすぐに忘れてしまう。

だけれど、歳を重ねるにつれ、割り箸がきれいに割れない程度のことでも尾を引いてジワジワと落ち込んでしまったりする。

一度したミスでいつまでもいつまでも落ち込むのと同じように。

 


「わたしは割り箸すらうまく割れない、なにもかもうまくいかない、もうだめだ」

 


最悪な場合、こんなことすら思ったりもする。

 


日々、積み重なっていく小さな鬱憤

"割り箸をきれいに割れなかったこと”がトリガーとなって爆発してしまうことって、

そこまで珍しいことではないように感じる。

人というものは、この誰も気にしない程度の小さな、小さな、鬱憤の積み重ねにより、

少しずつ、少しずつ、病んでいくのだと思う。