蛍光灯のひかりが嫌い

日記、たまに紀行

自己表現の仕方、あるいは140文字について

いつからだろう。

 

 

嬉しかったこと、感動したこと、悲しかったこと、何かあったらすぐに脳内で約140字以内の文章を組み立て、そのままツイートしてしまう。

大切な思い出が、いいねの数で価値が決まってしまうようですごくいやだ。

自分ひとりで噛み締めたい大切な思い出も、すぐにツイート。

ツイッターから離れてみても、脳内でツイート用の文章を組み立ててしまうのは治らなかった。

 

何より、ツイートしなくても脳内ではもうツイートの準備ができてるみたいで常に気持ちが悪い。こんなツイッター脳になってしまうなんて、これはもう病気だ。根っからのツイ廃。

 

ツイッター脳になって一番困るのが「長い文章が書けなくなった」ことだと思う。無意識のうちに約140字で、全て説明しようとしてしまう癖がついてるから。

こういったブログや日記、手紙を書くと、つくづくこの症状に悩まされる。書いてる文字がツイッター用の文章みたいで、気持ちがわるい。

こんなところまでツイッターが侵食してくるなんて恐ろしい。

 

 

ツイッターでは、基本自己満で自分を発信している人が多いとは思うが、「人に見られている」という大前提が常にあるため、「人に見られる用のもの」を自然と発信してしまうものだ。ここで生まれるのが承認欲求。私はこれもまた邪魔な欲求だと思っていて、気にしないようにはしたいけど、でも「人に見られている」というのを意識しない訳にはいかず、結果「人からの反応」でもって安心を得たり、承認欲求を満たされにいってしまう。

私だけに限らず、まあ殆どの人がそんな感じだろう。

 

冒頭で語った、

「大切な思い出もいいねの数で価値が決まってしまうような気がする」

というのが、本当に全てで、

自分にとっての、とっておきの記憶や思い出は人には共有しない方がきっといいのだ。

 

 

だけれど、ツイッターが完全悪だとは思わない。

例えば【自己の発信】や【感情の整理】とか。

 

【自己の発信】では、

自分の好きなものを発信することで、「私ってやっぱりコレが大好きなんだ、そうなんだ」って確信を得ることができる。これは完全に自分へ向けたものだけど、好きなものを発信するのは、他人に共有したいから、見せたいからだけでなく、自分を安心させたいから、自分自身を確立させたいから、というのも一つあると思うんだ。

 

【感情の整理】では、

言わずもがなだけど、まあ思ったことや怒りや嬉しかったことを赤裸々にツイートすることで、その時の感情を整理し、のみ込むことができる。

「ツイートする用に、その時の感情を言語化すること」そしてさらに、「言語化できた、その時の感情をツイートとして発信すること」で、一つの達成感や落ち着きを取り戻すことができるし、何よりその瞬間に、その時の出来事を形として完結させることができる。

 

自分の心と上手く向き合うためには、感情を常に言語化しようとすること自体はとても大切なことだけど、SNSと自分の心とはあまり密接に繋げ過ぎずで、ほどほどの距離感を保ちたいと思うばかりだ。。

 

 

 

透明な空気と祖母との小さな思い出。あるいはチャーシュー麺について

帰省した。

 

山の麓にある、大好きな実家。

 

緑が豊かで、川がきれい。早朝の朝焼けと、透明で清潔な空気。爽やかな風が頬をなでる。夜は虫の鳴き声がBGMとなり、心地よく眠りへ誘う。静かに耳を澄ませ、徐々に枕の奥へ奥へと沈んでいく意識。この瞬間がこの上なく幸せ。

夏の田舎は本当に最高だ。

 

 

祖母の容態が、日に日にわるくなっている。ひさしぶりに会う両親の、目の脇のシワが濃くなっていた。少し胸が痛む。

 

当然だけれど、自分が大人になるにつれ、まわりの大人たちも年をとっていく訳で、この現象にどうも慣れず、いつまでもあの頃のまま変わらぬ姿でこの先もずっとずっと隣に居てくれるんじゃないかと、心のどこかで思ってしまう。

 

ああ、また、幼いころの記憶の中へ閉じ籠りたくなる。

 

 

祖母とひさしぶりに出掛けた。

出掛けた、と言っても、近所のスーパーへ夕飯の買い出しと、トマトの苗を買いに行っただけなのだけれど。

 

 

帰りにラーメン屋に寄り、醤油ラーメンを食べた。

肉が食べられない祖母の代わりにチャーシューを食べてあげた。元々、チャーシューの量が多いラーメンなので、殆どチャーシューの味しかしなかった。

 

 

帰り道、歩きながら「今日は一緒にお出掛けができて嬉しかった」と、ニコニコと語りかけるような口調で言われ、なんだか途端に切なくなってしまい、少しだけ泣いてしまった。

 

 

大好きな実家、大好きな祖母、いつまでも元気でいてね。

 

割り箸のこと、あるいは小さな鬱憤について

わたしは割り箸を割るのがゼツボー的に苦手だ。

 

 


カップ麺をたべるとき、お弁当をたべるとき、定食屋に行ったとき

わたしは割り箸を見つめながら少し緊張している。

 

割り箸を上手に割ることができない。

 

割り箸ごとき…って思うかもしれないけれど(わたしもそう思う)とにかく苦手なのだ。

 

 

世の中のみなさまは、割り箸をきれいに割れなかったときどう思うのだろう。

 


あー、失敗した、でもまあいいや

 


と、流してしまう人がほとんどかな。

そのあとは目先にあるたべものに意識が集中して次第に割り箸がうまく割れなかったことなんて忘れていくのだろう。

かつてのわたしもそうだった。

だけれど、気づいたらそんな些細なことでさえ、いつまでもいつまでも引き摺るような大人に仕上がってしまったのだ。

 

楽しみにしていたおいしい食事も、"割り箸をきれいに割れなかった"というマイナスな感情で上書きされてしまうため、すこし損した気持ちになる。

味に支障が出るわけでもないのに。

 

手元を見下ろすといやでも目に付く歪な形の割り箸。

上手に割ってあげられなくてごめんって思う。

 


世の中には、"気にしないこと" ができない人がたしかに存在するのだ。

 

 

最近、思うのだけれど、

子どものころは、割り箸なんてきれいに割れなくても全く気にしなかった。

「あー!失敗した!」と思っても、すぐ別のことに興味関心が湧くから、そんなことすぐに忘れてしまう。

だけれど、歳を重ねるにつれ、割り箸がきれいに割れない程度のことでも尾を引いてジワジワと落ち込んでしまったりする。

一度したミスでいつまでもいつまでも落ち込むのと同じように。

 


「わたしは割り箸すらうまく割れない、なにもかもうまくいかない、もうだめだ」

 


最悪な場合、こんなことすら思ったりもする。

 


日々、積み重なっていく小さな鬱憤

"割り箸をきれいに割れなかったこと”がトリガーとなって爆発してしまうことって、

そこまで珍しいことではないように感じる。

人というものは、この誰も気にしない程度の小さな、小さな、鬱憤の積み重ねにより、

少しずつ、少しずつ、病んでいくのだと思う。

 

 

 

 

女友達のこと、あるいは『ホリー・ガーデン』について

 

寒い朝。窓を開けたら冷ややかな風が入ってきて、すこしだけ切なくなった。

 

昨日は夜中に『東京物語』を観た。やっぱり最後のシーンで泣いてしまう。

因みにわたしは小津安二郎作品のファンなのだけれど、この作品の原節子がいちばん好きだ。聡明で美しく、正直者で自我のある素晴らしい女性だと思った。彼女のことを想い、しくしくと泣きながら眠りつく。やけに朝の目覚めはよかった。

 

 

簡単な朝食を済ませ、いま読み返している江國香織の『ホリー・ガーデン』を開く。

この作品には、ちょいちょい小津映画が登場するのだけれど、ひさしぶりに『東京物語』を観ようと思ったのも、この作品の影響だ。

 

 

 ”タブー” というお話がいまの自分に特にぐさりと刺さったので抜粋する。

 

 

 

「愚鈍だが穏やかでやさしいこの男友達と肩をならべて歩きながら、女同士にはタブーが多くて厄介だ、と思った。」

 

「いつからタブーができたのだろう、と思った。避ける話題が一つずつふえ、いまでは果歩も静枝も、男のことについてはいっさい口をはさまない。質問もしないし、意見もしない。テリトリーを侵すことが怖いのだ。ほとんど神経症的に。」

 

 

 

どきりとした。わたしのことかと思った。

女の友情関係というものは独特で、親密になるにつれ、年月が経つにつれ、話すことよりも話さないこと、話せないことが増えていくのだと思う。

むしろ、関係性が浅い人の方が自分の悩みを打ち明けやすかったりする。それは、自分の過去を知らないから。自分の歴史を知らないから。その方が自分にとって都合がいいのだ。

 

でも、だからと言って仲が悪いわけでは決してない。

”なんでも話せる関係”というものが、友達、あるいは親友の定義ではなくなってくるだけ。(もちろん、友人関係の在り方は人それぞれなので、一丸にそうとは言えないが...)

それってすこし寂しいような気もするけれど、人生の苦楽を共に過ごしてきた過去があるからこそ、行き着いた関係性なのだと自分の中で収拾するようにしている。

 

 

 

 

 

そういえば作品の中で、初冬に富士五湖をドライブするシーンがあった。

途中、天然記念物鳴沢氷穴富岳風穴へ行ったり...

 

わたしも初冬に全く同じルートをドライブしたことがある。

 

ドライブ自体は好きだけれど、ナビを任せられるのが苦手で、助手席でナビと睨めっこしてた。隣には好きな人がいて、たくさん話を振ってくれていたけれど、わたしの意識はナビや地図に集中していたため、あまり会話が続かなかった。(わたしは元来、二つのことを同時に行うのが大の苦手なのだ)相手に申し訳ない気持ちと後悔で落ち込みながら鳴沢氷穴をとぼとぼと観光した記憶がある。氷穴はすごく寒くて、天井も低くて、どこもかしこもゴツゴツしていて、なんだかダンジョンみたいだった。

 

 

 

 

 

思い出話はさておき、わたしはこの作品の文章に微かに漂う退廃的なムードや、読了後の空虚感が好きで何度も読み返している。

 

 

 

 

昨日泣いたせいか、やたら重たいまぶたをぎゅっと押しながらコーヒーを淹れた。お部屋が一気に芳醇な香りに包まれる。ベランダから揺れる洗濯物をみていたら、なんとなく電車に乗りたくなった。ひさしぶりに中央線を散策してみようかな。

 

 

 

 

 

頭痛のこと、あるいはその対処法について

 

頭が痛い。

 

頭が痛いとこの世の全てを呪ってしまう。

とにかく頭が痛いので、「頭が痛い頭が痛い頭が痛い」としか考えられなくなる。視界もぼやけてくるし、人との会話が頭に入ってこない。ゼツボーだ。

 

そんなわたしが頭痛を患うようになったのは、遡って中学生のころ。

当時は、何となく気圧が原因だろう、ということで片付けていたけれど、年々悪化してしまい、とうとう気圧がどうこうと言うレベルではなくなってきてしまった。

 

社会人になってからは頭痛がさらに酷くなり、ついには頭痛が原因でケアレスミスを連発して上司に怒られたりなど。

業務に支障が出てしまうくらい頭痛って辛い病なのに、未だに正式な治療法が無いし、同じ頭痛持ちにしかこの苦しみを分かってもらえないのが現状だ。

 

 

だけれど、頭痛と長く付き合うにつれ、だんだんと頭痛が起こるパターンが分かるようになってきた。頭痛には種類があるのだけれど、それぞれの特徴を把握しておくことで、事前に予防できたり上手く対処できるようになってきたのだ。

 

頭痛の種類 ↓

 

・緊張型頭痛

・偏頭痛

群発頭痛

 

これを3大慢性頭痛と呼ぶらしい。

因みにわたしは3つの頭痛、全てを兼ね揃えてる。カリスマ頭痛スペシャリストって訳だ。

流石に頭痛に慣れてきて「あ、この頭痛の感じは緊張型だな」「これは偏頭痛よりの群発か?」みたいな感じで頭痛を自分で分類できるようになってきた。ありがたいことに、頭痛の分類ができるようになってくると、今度は頭痛を予期する能力が身に付いてくる。頭痛を自由自在に操れるのだ。ハンターハンターで言うと、操作系に見せかけた特質系(手持ちの頭痛、全ての能力を100%引き出せる)みたいなものなので、自分のことはクラピカだと思うことにしている。

 

 

前置きはさておき、今回は長年闘ってきた頭痛をもとに、完全頭痛マニュアルを作ってみた。

頭痛の種類によって対処の仕方が変わってくるので、今まで試して効果のあったこと、わたしなりの対処方法などを綴りたいと思う。

 

 

 

1 緊張型頭痛

原因:ストレス、緊張、肩こり、眼精疲労、長時間の同じ姿勢など

一番多い頭痛。未然に防ぐことが可能で、対処方法もたくさんあるのでまだ扱いやすい頭痛かな、というイメージ。

 

対処法:

⚫︎ストレッチ・・・効く。首や肩に痛みを感じたら頭痛がはじまる合図なので、首や肩を伸ばしたり、ツボ押しマッサージするとけっこう予防できる。

⚫︎ヒップエレキバン・・・肩こり頭痛にはこれ。磁気で肩の老廃物を流すものなので、肩が固まりやすいって人に効果的かも。個人差はあるけど、試す価値はあり。因みにわたしは、首のツボに貼るのがお気に入り。

⚫︎ブルーライトカットメガネ・・・これはまじでライフハックだった。頭痛持ちにとってブルーライトは敵!徹底的に遮断しよう。

⚫︎深呼吸・・・長時間同じ姿勢で作業していると、呼吸が浅くなりがち。ゆっくり深呼吸する習慣をつけたら快適に過ごせるよ。呼吸って大事。

⚫︎運動・・・定期的な運動により、肩や首が固まるのを防げるらしい。効果はあったけど、まあ長続きできないよね。

 

結論:とりあえず肩まわりをほぐしてリラックス!

 

 

2 偏頭痛

原因:人それぞれ。光や音、におい、気圧からくるものが多い

まじで一番しんどい。わたしは、大きな音、強い光(直射日光など)人混み、キツいにおい(香水)で頭痛が誘発するため、ライブハウスやカラオケ、映画に行くと必ず頭痛に襲われる。あと苦手なのがドンキ。あそこはヤバい、頭痛のトリガーとなるものしかない。近所にあっても絶対に行かない。

 

対処法:

⚫︎外の新鮮な空気を吸う・・・外に出て深呼吸するだけでかなりの確率で治る。

⚫︎ブルーライトカットメガネ・・・またしてもこれ。いつもありがとう。

⚫︎サングラス・・・夏の強い日差しは頭痛持ちの敵!徹底的に遮断しよう。

⚫︎暗闇で寝る・・・偏頭痛は刺激を与えると悪化するので、とにかく安静にするしかない。電気を消すか、間接照明だけで過ごすのもグッド。

 

結論:森の中でひっそりと過ごすのが一番の薬のような気がする

 

 

3 群発頭痛

原因:不明、仕事中に起こることが多い

この世で最大にして最悪の頭痛。別名、自殺頭痛と言われるくらい激しい痛みを伴う。他の頭痛と違い、同じ時間帯にやってくる周期的なやつ。(わたしは必ず16時になるとやってきた)勝手に来といて馴れ馴れしい。二度と来ないでほしい。

 

対処法:

⚫︎仕事を辞める・・・仕事を辞めたら治った。辞職が薬。

 

結論:仕事を辞めるしかない。

 

 

 

以上が、3大慢性頭痛の主な原因と、わたしなりの対策である。

3番目の群発頭痛については、通院もしていたけれど仕事を辞めた日から治ったので、過度のストレスや職場の閉塞感が原因だろうということで片付けた。

労働のストレスって怖い。

 

 

 

さて、

 

頭痛で一番お世話になるのが鎮痛剤だと思うけれど、あまり薬に頼りたくないのが正直なところ。

鎮痛剤は胃に悪いとか、乱用により薬が効かなくなるとか、数々の悪循環が待ち受けている。ただでさえしんどいのに、それは避けたい。

ということで、鎮痛剤以外でわたしが試して効果のあった、頭痛の痛み止めを紹介したいと思う!

 

まず、一つ目が

 

白花油(バイファヨウ)

 

台湾の家庭用常備薬で、わたしの大大大好きなスーパー万能薬。

効能は、頭痛、筋肉痛、腰痛、肩こり、虫刺され、虫除け、酔い止め、鼻炎、など

中身は液体状で、数滴垂らして患部に塗り込むイメージ。ハッカのような香りと塗るとスースーする爽快感が特徴的。

これひとつあれば、どんな時にも活躍してくれるスーパーヒーローなのだ。

ただ、台湾でしか手に入らないのがネック。現地では100円〜で手に入るが、日本の通販だと1000円くらいしてしまう。コロナ前は台湾に行くたびにまとめて買っていたけれど、そろそろストックがなくなりそうで焦っている。

 

 

そんなとき‥ついに日本でも白花油の代わりになるものを見つけてしまったのだ‥

 

 

ハッカ油

 

 

 

 

これ!!!!(歓喜

ロゴとデザインがすごくかわいい。あと、コンパクトで持ち運びしやすい。

 

日本では、主に虫除けや掃除で使われることが多いみたいだけど・・・

検証してみた結果、白花油と同様、筋肉痛や頭痛、虫刺され、酔い止めなどにも効果があった。もっともっと広く使用されてもいいんじゃないかな、と思う。

 

 

おすすめの使用方法をまとめてみた。

 

・ワセリンに混ぜて使う

→これを肩やふくらはぎ、足の裏に塗ると熟睡できた。もちろん、左右のこめかみに塗れば頭痛も和らぐ。他にも、鼻の下に塗れば鼻詰まりや、車酔いが解消されるよ。

 

・アロマ

→寝苦しい夜におすすめ。お部屋の殺菌効果もあるんだとか。あと害虫予防。

 

 

などなど。

わたしは肌に直接原液を塗っちゃうけど、これはかなり刺激強めなのでおすすめしない。あと注意事項に「原液を肌に直接つけないでください」って書いてあった。(苦笑)水かワセリンで薄めて使用しよう!

 

 

 

次に紹介したいものはこれ。

 

 

 

 

 

蒙古タンメン

 

 

信じられないと思うけれど(わたしもびっくり)偏頭痛に効くの。

偏頭痛仲間の友人が「蒙古タンメンが頭痛に効くんだ〜」と言ってたから半信半疑で試したら一瞬で治った。すごい。

調べたところ、唐辛子の成分が頭痛の痛みを和らげてくれるんだとか。

 

 

ハッカ油といい蒙古タンメンといい、頭痛の刺激には刺激で殺すしかないようだな・・・

 

 

 

以上がわたしなりの鎮痛剤(?)である。

 

 

今後は、漢方療法や鍼灸、針治療を受けようと思っている。

感想や効果の程は、またブログに記録したい。

 

 

 

 

わたしと頭痛との闘いはまだまだ続く・・・・

 

 

 

グミの木のこと、あるいは島崎藤村の詩について

 

グミの木。

 

 

小学校の中庭に、それはまあ大きなグミの木があった。

時期になると、赤く熟した実でいっぱいになる。艶やかで触るとぷにぷにしてて、きっと魅惑的な味なんだろうなあってずっと思っていた。

 

どうしたってこの実をたべてみたかったのだけれど、先生に「毒だから絶対にたべちゃダメ!」と言われてたし、まだ死にたくもなかったのでたべなかった。生徒たちの間では密かに”毒の実”と呼ばれるようになっていた。

 

 

 

あれから年月が流れ、わたしも大人になり、好きな人と散歩をしていたときのこと。

ふと、道端に大きなグミの木を見つけた。木には艶やかな、あの毒の実がなっている。

 

あ、グミの実だ。

 

彼はグミの実を一つもぎ取り、なんと、パクッとたべたのだ。

たべた!!!毒の実を!この人たべた!!!

これはえらいことになったぞ、とあわあわしていたら、

 

「姫林檎の味がする‥こいつ、栄養価が高いんだよ」

 

と、一言。

頭に雷が落ちてきたかのようなとんでもない衝撃が走った。

 

調べたところ、グミの実に毒性は含まれておらず、問題なくたべることができるらしい。

また、彼が言っていた通り、食物繊維やビタミンなどかなり豊富な栄養素を含んでいるため、むしろ積極的に摂取したいものだったのである。

 

どこが毒なんだよ‥

幼き頃の好奇心をなんの根拠もなく奪った先生には、正直怒りの感情がふつふつと湧いてくるが、もう大人なので、うん、と感情を飲み込むことにする。

 

 

 

ところで、彼の放った「姫林檎の味」という言葉で、一つ思い出した詩がある。

 

島崎藤村の”初恋”という詩だ。

こんな詩である。

 

まだあげめし前髪まへがみ
林檎りんごのもとに見えしとき
前にさしたる花櫛はなぐし
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅うすくれなゐの秋の
人こひめしはじめなり

 

上記は第一連、二連部分。

はちゃめちゃに初々しい初恋の歌なことがバレてしまった・・

 

この詩は小学5年生のときに国語の授業で習った詩なのだけれど、当時わたしには好きな人がいて、その人が初恋の人だったために秒でこの詩の虜になってしまった。

宿題で、「好きな詩を暗記し、次の国語の授業で一人ずつ発表する」というものがあったのだが、お察しの通りわたしはこの詩を発表した。(痛い思い出)

結局、彼に気持ちを伝えることができぬまま卒業してしまうのだが‥この詩を、みんなの前で(もちろん彼もいる)発表した訳だし、実質公開告白したようなものだし(?)甘酸っぱい思い出として大事にしまっておこうと思う。

 

さて、

この詩は、四つの連からなっているのだけれど、第三連、四連部分が特にわたしの気に入っている。

せっかくなので紹介しちゃお。

 

 

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋のさかづき
君がなさけみしかな

林檎畑のの下に
おのづからなる細道ほそみち
が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

 

 

よし、解読してみよう。

 

まず、第三連の

”わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき”

という部分。

「少年は、目の前にいる彼女に対して息が詰まるほど気持ちが溢れてしまい、思わず息が漏れてしまった」

というシーンを描いている。しかも、その溜め息が彼女の髪の毛にかかってしまったというのだから、かなり近距離である事が分かる。

 

きゅん・・・

 

続いて、第四連部分。

訳すと、

「林檎の樹の下に、自然とできたこの道のことを、誰がこの道をつくったの?と、いたずらっぽく言う彼女がまた恋しい」

となる。

ふたりは、この林檎の樹の下で何度も何度も落ち合っていたということが分かる。

何度も通うにつれ自然とできたこの道のことを、少年に「どうしてかしら?」と、わざと聞くあたり、堪らん。

 

 

 

初めてこの詩を学んだとき、少女漫画よりもきゅんきゅんした。

りぼん、なかよし、ちゃお、では絶対得られないこの高揚感...

詩を解読していくことに、初めて面白さを抱いた瞬間であった。

 

 

 

 

もうすぐ、秋

またグミの木の季節がやってくる。

あの時は、彼に圧倒されてたべることができなかったけれど、今度こそたべてみせる。

 

グミの実がなったら、さりげなく彼をグミの木があるあの散歩道に誘い、まるで偶然グミの実を見つけたかのように装って一緒にたべたい。

この際、もう味はどうでもいい、グミの実をたべた!という事実が大事だから。

 

 

ああ、秋が待ち遠しいや。

 

 

 

 

 

実体のない日々のこと、あるいは死について

 

都会に1人で住んでいると、とてつもない孤独感に襲われるときがある。

こんなにも人がたくさんいるのに、この世界でたった一人ぼっちみたいな気分になる。

 

 

人の波にすぐ埋もれちゃうし。

ちゃんと自宅に戻れるか、いつも不安になる。

毎日、毎日、わたしはわたしを見失わないように生きるのに必死だ。

 

 

ふやけたように実体のないぼんやりとした日。

そんなとき、わたしはたびたび春の甘い風を思い出す。

 

春の甘い風。

うっとりするほど甘くて、やわらかくて、死にたくなる風。

 

死は、春の風のように甘く、わたしを誘惑してくる。

 

 

 

死について考えると、必ず寺山修司の『青少年のための自殺学入門』という本のことを思い出す。

この本では、自殺の動機の立て方、遺書の書き方、そして数々の劇場型自殺者のエピソードが綴られており、題名に”学”がついているせいで小難しそうに見えるけれど、実際はかなりユーモアに溢れた作品で、こんなに軽妙に自殺について綴った作品はないと思う。

 

著書に、「失恋で死ぬのも、貧困で死ぬのも、全部他殺である」というようなことが書いてあったけれど、それでは、わたしが死の誘惑にグラついてしまうのはなにが原因なのだろう?他殺ではないような気がする。

 

 

 

特に不幸な訳ではない。自分に不幸を与えてくる人とは関わらないように生きてきたし、今でもそうしてる。好きなことをして、好きなものに囲まれて、ただただ淡々と日々を繰り返しているだけなのに、どうしてこの世の全ての不幸を背負ったような顔をして生活しているのだろう。

 

この現象に、もしかしたら病名がつくのかな。わたしは病気なんだと認めてしまえば楽になるのかな。だけれど、今の自分の心の変化や気持ちの浮き沈みなどを、「病気だからしょうがないんだ」という風に片付けたくなくて、(ただ、認めたくないだけなのかもしれないが…)とにかくしっかりと自分の心と向き合いたいのだ。

この理不尽な世界を愛することよりも、自分のことを愛することの方がなによりも難しい。

 

 

 

 

今日、ブルーハーツの『夕暮れ』という曲を聴いた。

あんまりにもやさしくて、あたたかくて、愛に包まれた歌だったからポロポロと泣いてしまった。

 

甲本ヒロトは、この言語化できない気持ちや、行き場のない悲しみ、苦しみ、怒りをぜんぶ歌にしてくれる。

行方不明になった心を、ちゃんと自分の元に戻ってこれるように道順を教えてくれるみたいだ。

 

 

 

何もかも、不自由なく生活できるようプログラムされたこの世界で、生きている、というリアリティをつい見失いそうになるけれど、夕焼けよりも炎よりも赤い真っ赤な血が体中を流れているということ(甲本ヒロトの引用)、忘れないでいたい。